告訴状解読

http://d.hatena.ne.jp/orange-strange/comment?date=20060716#c

http://www.hirono-h.net/2006/data/kokusojyou2006_blog.html

一通り読むのに2時間かかった。

あー

http://hirono-h.net/data/kokuhatu_2005_02_06.html
これのほうがよっぽどわかりやすいわ。これはス○ー○ー犯罪ですね。失恋の腹いせに殴ったと。

最高に重要じゃなさそうな部分の抜粋

多すぎるので消した。
6月18日〜7月5日あたりが物凄く酷い、告訴状として1文字も機能してない。日付で位置指定できる告訴状っていうのがそもそも酷いんだが。

読み解く上で重要そうな部分の抜粋

太字はこちらで。人名は一応伏せた

 根拠というのは、事実に基づく合理性と私なりの見解を示した前提で、その事実について、記述を進めて行きます。とりわけ今回は、O網兄弟に重点を置き、彼らの関与が、真相の解明の大きな鍵になりうるという、指摘を致します。
 なお、必ずしも彼らが犯行に深く関与していたという示唆をするつもりはありません。幇助というかたちで、関わりをしていたのかもしれません。はっきりしている重要なことは、彼らの関与と行動に伴い、事実上、私の生活に打撃を与えたということです。仮に別の犯罪者を利するために行ったにせよ、事情を深く知り、十分な理解のもとで、利害打算を図ったはずです。
 前回の告発状では、K田Y満の関与について、詳しい説明をしました。真相について断定的なことは言えませんが、現時点でK田Y満に関しては、O網兄弟に利用された可能性が高いと思います。

もしかして前回の告発状がないと解読できないのか?

同じ辺田の浜の子供と遊ぶことが多く、宇出津の子供との付き合いは、多くありませんでした。
 それでもO網K二とは、少し遊んだことがあり、一度だけ、辺田の浜の家にも来ていました。K田Y満も、一度だけ辺田の浜の家に遊びに来たことがあるようで、彼がマムシを捕まえ、喜んでいた姿を記憶しています。

高校の頃の話

小棚木には、別に父親の墓があり、幼い頃からちょくちょく来ていたのです。その墓があるところに家があり、その家のおばさんも機織り工場の従業員でした。おばさんの次男は、O網S一の同級生で、グループの一員でした。長男は、私より5つほど年上でしたが、O網S一とは付き合いがあり、平成9年の2月頃にO網K二とO網S一と一緒に家に行ったこともあります。墓のある家ではありません。
 そこで法律相談のようなことがあったことなど、以前詳しく書いてあるはずです。

以前詳しく…

 ただし、法律の適用という観点では、A藤Fに対する殺人未遂の告発と、私自身に対する殺人未遂の告訴では、相違が大きいと思います。その点につきましては、事実関係の記述を終えてから、取り上げたいと思います。

どうやらこれが本題らしいが

 K田Y満につきましては、前述のとおり、11月02日付の告発状で踏み込んだ説明をしてあると思います。今回重点的に取り上げるのは、O網兄弟についてです。

やっぱり告発状も参照しないと駄目みたいだ

 高校をやめたのは昭和56年の6月頃です。父親と関係があったタイヤ屋の紹介で、仕事はすぐに決まりました。7月頃から金沢で、寮の住み込みでガソリンスタンドの店員をやったのです。
 O網S一との付き合いが始まったのも、この頃からでした。
 まだ金沢に仕事に行く前、一つ年下の顔見知りを介して、家に呼ばれたのです。私が持っていたバイクのヘルメットをゆずって欲しいというのがきっかけでした。
 この時、自分も金沢のアパートに住んでいるので、金沢に出たら遊びに来るように誘いを受けたのです。そして、アパートに遊びに行き、しばらくするとガソリンスタンドで同じ年の先輩と店のなかで、取っ組み合いのケンカをして居づらくなり、そのまま彼のアパートに転がり込んで、一緒に生活するようになったのです。
 そこは増泉というところで、繁華街にも近く、水商売関係や、ヤクザの関係者が多く住んでいる地域でした。近くに、暴走族のたまり場があり、前にたむろをしていましたが、数人の女の子が、O網S一とはかねて顔見知りで、しばらくすると大家からたまり場の借家を追い出されたらしく、そのグループが丸ごと、O網S一のアパートに転がり込んできました。

 七尾の家裁で面接を受けたことがありましたが、その時、待合室でたまたまY田Tと母親に会いました。Y田Tはすでに幽鬼のような状態で、それからまもなく精神病院に入院しました。シンナー中毒です。

 当時は17歳で車も、免許も持っていなかったので、もっぱら先輩の車に同乗していました。春になって宇出津に帰ってから自動車学校で自動二輪の免許を取得し、中古でフォークⅡというホンダの400ccのバイクを買ったのですが、一月半ほどで免許取り消しになりました。
 O網K二もカワサキのFXという当時人気のあったバイクに乗っていたのですが、一緒に走っていたところ、水産高校のグランドの前の緩いカーブで、民家のブロック塀に接触、転倒して骨折し、宇出津病院に入院しました。
 事故の時、悶絶する彼を腹を抱えて、大笑いしていた私にも問題はあったと思いますが、この事故あたりを境に、彼の性格が悪くなり、病院に見舞いに行く友人もいなくなったようです。

 田浦の家のことです。そこを事務所にし、暴走族に交代で当番をさせるような話があったようです。家財道具等もあれよという間にそろえられていました。
 もともと当時の地元では、暴力団やヤクザに対する抵抗が強く、そのような団体とは関係を持たないというのが、グループの明示の共通認識でした。
 まもなくグループは分裂し、田浦の家には近寄らなくなり、O網S一が呼びに来るので、夜でも部屋の電気を消して、居留守を装うという状態になりました。結局この件で、グループが分裂し、若者が寄りつかなくなったので、暴力団の方も計画を諦めたようです。後日、O網S一はそのことで、Aから暴行を受けたようなことも口にしていましたが、確かなことはわかりません。
 はっきりしていることは、そのことでO網S一が私たちに根深い、反感と不満を抱いたと言うことです。

最重要?

 いささか乱暴な書き方になりそうですが、私とA藤Fは平成3年9月頃には、お互いを強く意識しあう、相思相愛の恋愛状態にありました。この機会を利用して、不正な働き掛けを行ったのが、M平H男をはじめとする市場急配センターの関係者です。
 目的は判然としませんが、そのような一連の活動は、それ以前、同じく平成3年の春頃から始まっていたものと推測されます。一連の活動は人的にも事実的にもつながりを持っており、とりわけ重視されるのが東渡好信の存在でした。
 Y田Tや多田敏明を巧みに動かし、情報を得ながら大まかな指示を出していたと思われるのですが、残念ながら具体的なことはあまりわかりません。
 唯一上げることが出来るのは、平成4年2月1日の夜、A藤Fの彼氏だったというY田S克が、私に急接近をはかり、その現場において、不審に市場急配センターの駐車場を通過するY田S克の車に対し、見て見ぬふりをしていたという不審な態度でした。また、このような舞台設定を準備出来たのも、一応配車係で私を含めた運転手の動向を把握し、左右することが出来た東渡の働き以外には考えにくいところです。
 このA藤FとY田S克の交際というのは、被告訴人らによって既成化された事実です。しかしながら、真実であった可能性はかなり疑わしい事実であり、被告訴人らの侵害行為の基礎をなす重要な要素です。
 4月1日の事件で、A藤Fは金沢西警察署出頭後、救急車で搬送中意識を失い、少なくともその後2ヶ月は意識不明の状態で、死んでしまうか植物人間になることが危惧された状況でした。
 意思表示など出来ませんし、捜査が終結するまでの間は死人も同然の状態であったといえます。私の記憶では、その平成4年の6月30日の公判で、江村検察官が意識が戻ったような説明をしていましたが、まだ記憶がはっきりしないような曖昧なことも話していました。初公判は、6月18日にあり、その時は、そのような説明がなされていなかったと思うので、この6月18日から30日の間に、不完全ながら意識自体は戻ったようです。
 8月から9月の間には、開頭手術など受け、入院していた石川県立中央病院を退院し、小松市内の八幡温泉病院に転院して、リハビリ治療を受けるようになっていたと聞きます。これは、控訴審の私選弁護人になった木梨松嗣弁護士からの照会状のコピーなどで知り得た事実です。
 被告訴人のうちの、M平H男、U野H之、I田H美、Y田T、Y田S克、H口T也の6名は、金沢西警察署で事情聴取を受けたらしく、供述調書まで作成していました。A藤Fの両親の供述調書もありますが、具体的な事実については、私から家に電話があったことぐらいしか知らないようでした。私自身が、両親の供述調書も読んでいるからだいたいのことが分かるのです。
 事実認定の基礎となったのは、同じ会社の上司や同僚であった6名の供述であり、これをそのまま認定したような判決が出たのは、平成4年8月3日のことでした。

「いくらあの娘きかんでも、死ぬほど殴ることないやろ」ともいって、突き放すように、私を詰っていました。

この写真ファイルにあるような小屋に、O網K二は机や電話機まで持ち込み、そこを事務所だと言い、ここに客を招いて商談までやる、少しも問題はないと自信たっぷりに話していました。
 これはどう考えても正気の沙汰の発言ではなく、特別な目的のための手段としていたと見るのが相当です。これを含めた一連の工作活動により、私は経済的にも大きな打撃を蒙り、無言の圧力を感じるとともに、活動を押さえ込まれてしまいました。
 エヌー・ケー興産株式会社の社長、娘による美人局としか考えられないような、不可解な働き掛けもありました。
 挑発や誘惑に乗るようなことはなく、さりげなく無難にかわしたとも言えるのですが、O網K二が協力者を動員して、工作活動を展開した事実は疑いようもなく、それはおよそ一月前のK田Y満の不当解雇に端を発したものであったと見るのが合理的です。
 O網S一も加担しておりますが、彼らの一連の行動は、具体的な目的要求としていっそう顕著に現れております。
 それは私に、A藤Fやその家族との関係を断ち切り、過去の一切を忘れろと言う強固な要求、目的意思でした。

 O網兄弟やK田Y満の強固な目的意思については、御庁にも以前送付したことのあるCDに音声ファイルとして、会話を録音したものがあり、ずっと前にマスコミや大学にもネット上で公開してあるものです。
 御庁からは未開封のまま返戻されましたが、その後、金沢地方裁判所の方に再審請求の資料として提出してありますので、現在は御庁に保管されているかと思います。
 K田Y満の積極的な働き掛けについては、これまで御庁に提出してきた資料に詳細に書いてあるはずです。それがK田Y満個人の考えではなく、O網兄弟と足並みを揃えた、一蓮托生の行動であったことも疑いを容れる余地はありません。
 その目的や必要性については、M平H男やH口T也ら市場急配センターの協力要請に応えた可能性と、彼ら自身が計画の初期段階から犯行の遂行に参加して、一部の行為を行っていた可能性があります。
 私に分かる点につきましては、これもこれまで御庁や金沢地方裁判所に提出してきた資料の中で、説明してきたとおりです。
 O網兄弟とK田Y満の3名につきましては、その妻らを含め、私の前妻に対しても積極的な働き掛けや、情報収集活動を行っていた可能性があります。つまり私とA藤Fさんの関係が始まった平成3年の9月頃に前後して、すでに水面下での活動を行っていたという可能性です。
 彼らは私が、別れた前妻や子どもたちに対し未練を抱き、前妻も本心から離縁を望んでいなかったことを熟知していたはずです。前妻に関しては、私以上に本人の気持ちや事情について詳しく知っていたことでしょう。

核心はここか?

 O網兄弟とK田Y満の3名につきましては、その妻らを含め、私の前妻に対しても積極的な働き掛けや、情報収集活動を行っていた可能性があります。つまり私とA藤Fさんの関係が始まった平成3年の9月頃に前後して、すでに水面下での活動を行っていたという可能性です。

告訴人廣野氏が前妻(?)のA藤さんを平成4年4月1日に死ぬほど殴るに至ったのは上記3名の所為だから、彼らを含めた13名に殺人罪やらの適用が〜という話なんだろうけど、上記引用部分の「可能性」についての説明がないからどんだけ長文書いても無意味でしょう。
市場急配センターの関係者とこの3名にどういう繋がりがあるのかが全く読み取れなかった。